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2008年02月20日

社会で習いました!

覚えてます!

江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。

江戸時代後期に開国し、明治新政府が成立した日本では1868年(慶応4年)12月19日に新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を持つ使者を李氏朝鮮政府に送ったが、国書の中に「皇」「勅」の文字が入っており、冊封体制下では「皇」は中国の皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味していたので、朝鮮側は受け取りを拒否した。その後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否した(書契問題)。

日本側は、先に清国と対等な条約である日清修好条規を締結する。その後、日本と清国の間で領土問題(台湾出兵参照)が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示し、ここで交渉は再開されるはずであったが、1872年(明治5年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。この倭館なるものは、建物の建設・日本側の滞在費を朝鮮側が負担し管理していたもので、日本における長崎の出島に当たるものである。

更に同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本公館と改名し外務省に直接管理させる事にした。 この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行った。かつてはこの時に「侮日掲示」を朝鮮側が行ったとされ、実際に明治日本側にそう報告されたが、近年の研究ではその報告書の記述が作為であったことが明らかとなっている。

しかしいずれにしても日本側の感情を逆撫でする効果は十分あったのであり、このため日本では有名な「征韓論」が巻き起こるに至った。
(以上、ウィキペディアより引用)

けど内容は全く覚えてません!

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